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箴言 しんげん proverb | |||||||||||||||
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——『N・H・Kにようこそ!』2巻47ページ (滝本竜彦・大岩ケンヂ/角川書店 角川コミックス・エース) |
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箴言とは、生活していくうえでの「教訓」になるようなことがらを、みじかくまとめたことばのことをいいます。つまり、おおくの人が知っている、人間のもつ一面をうつしとったような「決まり文句」のことをいいます。 | |||||
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古くから伝わってきた威厳のある「箴言」を使うことで、説得力を増すことができます。 | |||||
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古くから使われている「箴言」は、簡潔でかつポイントをついたものになっています。これを利用することで、歴史の重みを表現することができます。 | |||||
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「箴言」は、引用してきたことをハッキリ書きあらわすほうがメジャーです。それは、ふだんなじみのないことばだからです。これにたいして「ことわざ」は、たいていの人が知っているのがふつうです。なので、引用してきたことをハッキリ書かないのがよとされます。 | |||||
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引用は『N・H・Kにようこそ』2巻からです。 主人公は、「佐藤達弘」 「佐藤」は、ひきこもり。その、佐藤みずからの自己紹介によれば、 とのことです。 しかし、佐藤が住んでいるアパートの、となりの部屋の住人が「山崎」という男だった。このことから、ストーリーが動き出す。 この、となりに住んでいる「山崎」は、佐藤の高校時代の後輩で顔なじみだった。そして、なによりも山崎は「オタク」だったのだ。 そして「山崎」は、「夜ゼミ」という専門学校に通いつつ、クリエーターを目指していた。 問題は、「山崎」が将来なろうとしていたのが「エロゲーのクリエーター」だということ。説明するまでもなく「エロゲー」というのは、「18歳未満お断りになる、エロいゲーム」のこと。 そんなわけで、「佐藤」もまた「山崎」とともに、「エロゲー」をつくるメンバーの1人となった。 さて、他方で。 「佐藤」は、「岬」という女の子と知り合う。さいしょ「岬」は、「宗教勧誘のおばさん」についてきて、たまたま佐藤の家をおとずれた。しかし、どうしたことか「岬」は、「佐藤」の「ひきこもりっぷり」に興味をもった。そして、次第に「岬」と「佐藤」とは親しくなっていく。 そして、引用のシーン。 「佐藤」は、「エロゲー」のストーリーを考えている。だが、どうしても「岬」のことがアタマから離れない。エロゲーの対象となる女の子、つまり陵辱する女の子として、どうしても「岬」をイメージしてしまう。 そんな「佐藤」は、もだえ苦しむ。そして、ひとりごととして「箴言」を2つほど使います。
つまり、みだらなことを考えてしまう自分を「いましめる」。そのために「箴言」を用いているというわけです。 |
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たいていのばあい、「出典」といわれるような「そのことばの出所」がハッキリしています。このことは、ほかの「ことわざ」や「慣用句」といったようなものとの違いといえます。 日本のばあい。 この「箴言」の使われるようになった「出典」が、わりと限られます。 具体的に書くと、中国の古典といわれるようなものです。それは、「漢詩」であったり「歴史書」であったり、たまに「物語」であったりします。 またキリスト教で「The Proverbs」といったばあい、多くは旧約聖書の「箴言」を意味します。 |
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「箴言」に近いレトリック用語と、それに対応する英語をならべてみました。これは、「ことわざ」だとか「格言」だとか、そういった用語を区別することが、とても難しいからです。言いかえると、「ことわざ」だとか「格言」だとかの境界線をどこに引くかという判断をするための資料として、書いておきます。
しかし。 現実には、こんなにキッチリと区別できません。それは、日本語のほうにも英語のほうにも当てはまります。 ですので、とりあえすの参考のものと考えておいてください。上に書いた表は、「だいたいこんなもの」という程度のものです。間違っても、左に書いた日本語と、右に書いた英語とが、一対一で対応しているわけではありません。というのは、完全にこれらを振り分けることは非常に困難だからです。 なお、くわしくは「成句・イディオム」のページを参照してください。 |
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さいしょにも、ちょっと書きましたが。 「箴言」というレトリックが、ほかの「成句」と違っているところをあげてみると、つぎのようなことがいえます。
「箴言」の英語訳は、とりあえず"proverb"ということにしておきました。 なお。 英語で"Proverbs"というふうに「最初を大文字で」書いたばあい。これは、旧約聖書のなかにある『箴言』という本のことをさします。 |
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「箴言」という単語に使われている、「箴」という漢字。これは、「いましめ」というような意味をもっています。 | ||||||||||||||||
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「箴言」は、ある一定の場面で通用するものです。つまり、いつでも正しいという真理をあらわしたものではありません。シーンによっては当てはまったりするけれども、別のシーンでは通用しないということが、ままあります。 | ||||||||||||||||
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箴言 |
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引用法、明示引用、暗示引用、諷喩、成句・イディオム、ことわざ、寓言、寓話、格言、金言、警句、故事成語、慣用句、あいさつことば、決まり文句・クリシェ、古語法![]() |
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「箴言」というマイナーなレトリック用語を、それなりに解説してあります。 | |||
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「小人閑居して、不善を為すが如く」のだいたいの意味は、
つまらない人間は、人目のつかないところでは良くないことをしがちになるというようなことです。 ここでの「小人」というのは、もともとは「徳のない君主」という意味のことばです。けれども、こんにちでは、たんに「器の小さい人」とか「つまらない人」といったことをさします。 また「閑居」というのは、もともとは「気を抜いていること」とかいったことをいいました。ですが現在では、「ヒマでいること」「ブラブラしていること」といったようすをさしています。 まとめると。 もともと、このことばは君主にたいしてのもので、 徳のない君主は、気を抜いていると良くないことを考えがちになるといったことを指していました。 ですが、いまの日本では、 つまらない人間が、ヒマでいると良くないことをするといった意味で使うことができます。 なお、もともとの出典は『大学』です。 |
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おおまかにいえば、
心の中にある雑念を取りのぞこうといったことです。 「心頭」というのは、「こころ」のこと。また「滅却」というのは、「なくす」ということです。 もともとに出典は、杜荀鶴(とじゅんかく)の書いた詩です。けれどもこの熟語は、戦国時代に「快川」というお坊さんが使って有名になりました。 「快川」について、くわしく書くと。 この「快川」という和尚さんは、恵林寺という寺の住職でした。そしてこの恵林寺は、武田にゆかりのある寺でした。 なお、戦国時代の「仏教寺院」というのは、現在のイメージとはかなり違うことに注意しておく必要があります。この時代の「寺」というのは、「宗教武装勢力」といったほうがピッタリします。つまり、武田にゆかりのある寺というのは、「武田方の宗教武装集団」といったほうが正確です。 で。 武田軍は、織田軍と対立するようになった。そしてその結果、武田軍と織田軍が戦争をはじめる。そして織田軍は、「快川」が住職をしている恵林寺に攻めてくる。もういちど書きますが、当時の「寺」というのは「武装集団」です。なので、それが敵である「武田」の味方である以上は、攻め込む必要があったわけです。 そして、ここで織田軍が使った戦法。それが、「火攻め」です。つまり、恵林寺に火を放って、もろとも焼き殺すという手段をとります。まあこのあたりは、戦国時代の戦いかたとして納得していただくよりほかありません。 そこで、住職である「快川」は、寺とともに焼き殺されてしまうわけです。なのですが、この「快川」は死ぬまぎわにセリフを残します。それが、 心頭滅却すれば、火もまた涼しという例の「箴言」です。 …これは、すごくナゾです。だって、「快川」のまわりは火に囲まれているわけです。これから焼き殺されようとしているわけです。それなのに、そういったアブナイ状態にいう「快川」さんのセリフを聞き取る人が、どうしていたのだろう…? ま。それは、歴史的に見れば良くあることですけれども。たとえば織田信長が、本能寺のまわりを明智光秀にかこまれたとき。そんな風前の灯火のような状況で話したセリフ、 是非におよばずというのが残っている。それは、だれが聞いていたのでしょうか? だって、本能寺で戦った織田の味方は全員殺されていますし。 …けれども、このセリフは『信長公記』という書物に残っています。そして、この『信長公記』という本は、戦国時代について書かれたもののなかで最上級の資料とされています。…やはり、ナゾです。 とにかく。 この「快川」という和尚さんが使ったということで、この「心頭滅却」という「箴言」は有名なものとなりました。 |
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以上を、ひとことでまとめると。
ひきこもりになると、ムダな知識が増えるということでしょう。 とくに佐藤は、「小人閑居〜」というほうの「箴言」を、「もともとの意味」に近い使いかたをしている。つまり、佐藤自身の持っている、みだらな心を「いましめる」という意味で使っている。 この使いかたができてしまうというのは、ムダに知識だとおもう。つまり、他人と関係をもっていくうえでは役に立たない知識。まさしく、「ひきこもり」であるがゆえの知識だと感じるわけです。 |
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