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枕詞 まくらことば pillow word | |||||||||||||||
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——『ちはやふる』1巻122ページ (末次由紀/講談社 BeLoveコミックス) |
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枕詞は、和歌で使われる技法の1つです。決まった言葉を導きだすために手前に置かれる語句のうち、ふつうは5音の長さで、それに続く言葉を修飾しているもののことをいいます。 | |||||
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「枕詞」は、ある語句を引きだすために、その語句の前に置かれます。つまり「枕詞」は、それに続く言葉を導きだしているということです。 | |||||
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ですが。「枕詞」については、言葉がもっていた本来の意味がわかっていないことが多くあります。これは「枕詞」が、だんだんと慣例的な表現になっていったからです。慣例化するにつれて、はじめに「枕詞」があらわしていた言葉の意味から遠ざかっていた。その結果、もともと「枕詞」が担っていた言葉そのものの意味が分からなってしまったのです。 | |||||
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多くの「枕詞」は、その本来の意味が分かりません。そのため「枕詞」は、たんに口調をととのえるために使われたと説明されています。 | |||||
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「枕詞」がもっていた、もともとの役割。それは、「枕詞」に続く言葉(被枕詞)を「比喩」としてあらわすものだったと考えられています。ある程度の意味がわかっている「枕詞」のなかにも、「比喩」としての役割を持っているものが多く見られます。 | |||||
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大部分の「枕詞」は、5音の長さを持っています。そして5音の長さによって、和歌のうち1句を占めています。ただし、5音ではない「枕詞」もあります。そういった例外的なものについては、下のほうに書いておきました。ですので、そちらをご覧ください。 | |||||
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「枕詞」に続く言葉(被枕詞)は、ある程度決まっています。「枕詞」が導きだす言葉(被枕詞)は、何らかのルールにもとづいているのです。だから、学校の授業では「あらたまの」が「年」に結びつく「枕詞」だ、というような教えかたがされるのです。このことから「枕詞」は、特定の語句をひき出すために置かれるものだということもできます。 | |||||
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「枕詞」のなかには、その意味がある程度分かっているものがあります。そのような意味が判明している「枕詞」のなかには、「枕詞」に続く言葉(被枕詞)を修飾しているものが多く見られます。 | |||||
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このページの、いちばんはじめの画像は、『ちはやふる』1巻から。 この『ちはやふる』は、「競技かるた」のお話です。 主人公は、綾瀬千早(あやせちはや)。小学6年生の女の子。 彼女のクラスに、新しく転校生が入った。名前は、綿谷新(あらた)。新(あらた)は、「競技かるた」を得意としていた。そして、新(あらた)が「競技かるた」をしている様子を見た千早(ちはや)は、次第に「競技かるた」に興味を持ちはじめる。 「競技かるた」をするためには、まずはじめに、使われる100首の歌を覚えなくてはなりません。なぜなら「上の句」が読まれた時点で、その「上の句」に合う「下の句」を見つけて取らなければならないから。 でも千早(ちはや)は、100首ぜんぶをマスターするのに苦労する。そんな千早(ちはや)と、かるた練習会の先生とのあいだの会話。それが、引用の場面です。 先生が「バッチリ覚えてるのも、あるだろう」と聞く。それにたいして千早(ちはや)は、 といっています。なぜなら 「ちはやふる」という歌の最初に、自分の名前「ちはや」が入っているから。本人も、そういっています。 そして。 この 「ちはやふる」ではじまる和歌は全文では、どのようなものかというと。それは、引用してある画像に書かれているように、 ちはやふるというものです。 さてここで、とりあえず。 引用に出てきた和歌を、漢字仮名交じりに直させてもらいます。 どうしてかというと引用した画像は、そのままでは非常に読みづらいからです。和歌が、すべて「ひらがな」で書かれています。しかも、上の句は口語体で下の句は文語体になっています。これでは分かりにくいのです。 で、漢字仮名交じりに直すと、 ちはやぶる神世も聞かずたつた河 唐紅に水くくるとは (在原業平)となります。そして、とりあえずの口訳を書いておくと。 (不思議なことや珍しいこと多かった)神代にも聞いたことがない。といったあたりのことです。 で。 やっと、「枕詞」の説明をする準備がととのいました。ここから先、「枕詞」について見ていくことにします。 この和歌には、「ちはやぶる」という「枕詞」が使われています。 ですので、「ちはやぶる」という語句でもって「神」を修飾している。「神」がどんな様子なのかということを、「ちはやぶる」という言葉が説明している。そのように言うことができます。
この「ちはやぶる」という「枕詞」。たしかな意味が、明らかになっていません。 「ちはやぶる」が、ほかにどんな語句にかかるのかを調べてみると。「神」のほかには、「氏」などにも結びつくようです。 ここでいう「氏」というのは、権力のある氏族というような意味です。そういったところから総合して、「ちはやぶる」という「枕詞」は「勢いのある、強暴な、荒々しい」といったことを指していると考えられています。(左の画像は、奏が千早に「ちはやふる」の説明をしているシーン。) ただし。この「ちはやぶる」を、どのように品詞分解するかについては定説がありません。やはり「枕詞」をいうのは、ナゾの部分が残っているのです。 そういったナゾの部分の含めて。 「ちはやぶる」は、「神」などのことばにかかる「枕詞」だと説明されます。 |
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なぜか1巻だけ、出版が1992年となっていて古いのです。でも、まあとにかく『八雲立つ』からの引用です。これもまた、本のタイトルからして『八雲立つ』。つまり「枕詞」なのです。 で。主人公は、七地。 登場シーンで彼はヘバっている。疲れている。なにせ、相当の重さがある(実物の)日本刀を持って、出雲に取材旅行に行くハメになってしまったのだから。 なんで、そんな大きな日本刀を持っているのか。それは次のような事情があるからです。 むかし七地の家は、代々、刀鍛冶をしていた。けれどもその伝統は祖父の時代にとだえてしまっていた。なので、出雲に行くついでに、刀を奉納しようということになった。そのような理由みたいです。 でも、かなりヘバってます。日本刀を持って飛行機に乗るわけにもいかないので、陸路だし。 で、やっとのことで、宿泊することになっていた布椎家に到着。そこで「闇己(くらき)」という青年と出会う。「闇己」との関係は、このコミックスの中で次第に明らかになるのですが、それはレトリックと関係ないので省略しておきます。 そして次の日。闇己たちとのあいだで、古代の日本の神話についてのことが話題となる。それが引用したシーンです。 見てのとおり、 八雲立つ 出雲…と、「八雲立つ」という言葉から「出雲」という言葉が導き出されています。なので「枕詞」と言うことができます。一部には「枕詞」であることを否定する説もありますが、このサイトでは「枕詞」としておきます。 なお、この和歌の作者は、闇己の言っているように「スサノオノミコト」です。ちなみに出典は『古事記』です(『日本書紀』にも、ほとんど同じ和歌が書かれています)。 しっかりと口語訳と解説まで書かれているので、これ以上に説明しなければならないことは、特にありません。あえて書きくわえておくとすれば、口語訳は「直訳」ではなく、かなりの「意訳」になっているということくらいです。ですが決して、間違えているとか、飛躍しすぎているとか、そういうものではありません。 |
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「枕詞」についていえば、ほとんどのものが5音の長さです。 これは、「序詞」と大きく異なります。「序詞」のほうは、長さがかなり自由です。たしかに「序詞」の長さは2句〜3句が一般的ですが、その例外はかなりあります(くわしくは「序詞」のページをご覧ください)。 それにくらべると。 「枕詞」は、だいたいのものが5音だということができます。 例えば、
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ただし。すべての「枕詞」が、5音だというわけではありません。すこしですが、4音のものがあります。また、かなり少ないですが3音・6音の「枕詞」もあります。 3音の例として。
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例外はありますが、たいていの「枕詞」は5音で作られています。 「枕詞」は、和歌で使われるものです。その和歌がもっている、5・7・5・7・7というリズムに当てはまりやすいように、「枕詞」は5音になっているのです。 そうすると。 どうして、上で書いたような〈5音ではない「枕詞」〉なんてものがあるのかという点が問題になってきます。たしかに3音や6音の「枕詞」は数えるほどしかありませんが、とくに4音の「枕詞」が問題です。4音の「枕詞」というのは、全体から見れば少しではあるけれど、でも無視できないくらいの数があるのです。 これを解くカギ。それは、「5・7・5・7・7」というリズムによって成りたつ「和歌」が出来あがった次期にあります。 5音と7音からつくられる、「和歌」のかたち。これは、だいたい『万葉集』が作られた時代に完成しました。では『万葉集』よりも前の成立した『古事記』『日本書紀』は、どんな歌がおさめられているかというと。『古事記』『日本書紀』のなかには、5音や7音ではない音のリズムをもった歌謡が多く見つかるのです。 たしかに、『古事記』『日本書紀』に見つかる歌でも5音や7音のリズムにしたがったものが基本です。けれども、わりと5音や7音のリズムからハズれているものもあります。 「枕詞」は、5音や7音でつくられている和歌の中で使われるからこそ、5音のかたちをしている。そのように上でも、一度ふれました。 なので。 『古事記』『日本書紀』にある、5音や7音ではない歌のなかにある「枕詞」は。べつに、5音の長さをしている必要はないのです。 そういったわけで。 4音の「枕詞」という、イレギュラーな長さのもの。これを使った例が見られるのは、『古事記』『日本書紀』が中心です。 |
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「枕詞」と、その「枕詞」によって呼びだされてくる言葉(被枕詞)。この2つの間には、どういった関係があるのか。言いかえれば、「枕詞」によって誘いだされる言葉(被枕詞)は、どんなつながりによって「枕詞」と結びついているのか。 これについては、大きく2つに分けるのがふつうです。 具体的には、 (1)音により結びついたもの——という分類です。 そして、そのうち「(1)音により結びついたもの」のほう。そちらについては、さらに2つに分けることができます。それは、 (1a)音が反復して結びついているもの——といった2つです。 このように「枕詞」の性質については、合わせて3種類に分類することができます。 ですので、これより下では、この3つのタイプについて、少しくわしく見ていくことします。 なお。 「枕詞」の分類のしかたは、このような3分類のほかにも提案されています。たとえば[Wikipediaにある「枕詞」の項目]では、4つに分類しています。これは、本サイトがいう「(2)意味によって結びついたもの」についても、2つに振り分ける考えかたです。 ですが、とりあえず。 このページでは、「枕詞」の分類については3つに区分して考えることにします。 |
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1つ目は、「音により結びついたもの」のうちで「音が反復して結びついているもの」にあたるものです。 これに当たるものを1つあげておくと。 浅芽原(あさぢばら) つばらつばらに 物思(ものも)へばこれを例にして、確認をしてみることにします。 まず。 「浅芽原」というところが「枕詞」にあたります。「あさぢばら」もしくは「あさぢはら」と読みます。 この「浅芽原」の、「ばら」の部分がもっている音。この「ばら」の音が、それに続く「ばらつばらに」のうちの「ばら」の音と重なっている。同じ音が反復して登場している。そして、それによって「枕詞」が結びついている言葉(被枕詞)を導きだしている。そのようなことから、「音が反復して結びついている」というタイプの「枕詞」だということができます。 なお。これが「意味によって結びついている」タイプに当てはまらないことを、確認しておくと。 「浅芽原」というのは、「浅茅」が生えている「野原」のことです。そして「浅茅」というのは、「浅く生えた茅(チガヤ)という名前の野草」のことです。 そして「つばらつばら」とは、「ひとつひとつ詳しく」ということです(たぶん「つまびらか(詳らか)」と関係のある単語だと思うけど、確認が取れない)。 そういったわけで。「浅芽原」の「原」と、「つばらつばら」の「ばら」とは、意味としては結びつきがありません。「音」がつながっているという理由によって、「枕詞」になったものなのです。 なお。 この「音が反復して結びついているもの」と、次に書く「1つの音が掛詞のように2つの意味を兼ねて結びついているもの」との違い。 それを見わけるポイントは、反復しているかどうかです。 同じ音が2回以上でてきたときは、「音が反復して結びついているもの」にあたります。これにたいして、1回だけしか音が出てきていないときには、「1つの音が掛詞のように2つの意味を兼ねて結びついているもの」となります。 |
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つぎに。 「1つの音が掛詞のように、2つの意味を兼ねて結びついているもの」を見てみます。これはようするに、「音が反復しないで結びついているもの」です。 またもや例をあげてみると、 梓弓(あづさゆみ) はるたちしより 年月のこのうち、「梓弓」のところが「枕詞」です。「あづさゆみ」と読みます(現代仮名づかいだと「あずさゆみ」)。そしてこの「梓弓」という「枕詞」が、これに続く「はる」を導きだしているということになります。 ここで、「はる」という言葉の意味を考えてみます。つまり、「枕詞」との関係での「はる」と、それに続く言葉との関係での「はる」がもっている意味に注目しようというわけです。 「枕詞」との関係での、「はる」がもっている意味。それは「弓を張る」という意味をあらわすものです。歌の全体を通して「梓弓 はる」の部分をみたときには、 梓で作った木で作った弓に張った矢(が見る間に飛び去るように)といったようなことを、あらわしています。 つぎに、「はる」という言葉と、その「はる」より後の言葉との関係を考えてみると。ここでの「はる」は、「春」ということをあらわしています。なので、「はるたちしより年月の」がいわんとしていること。それは、 春がやってきてからの年月はというあたりのことです。 ここまで、まとめると。 「はる」は、掛詞のように2つの意味をもっている。「枕詞(梓弓)」との関係では、「弓を張る」というものを。それより後の言葉との関係では、「春」というものを。 このように。 掛詞になるようなことばを導きだすために、決まった言葉をつける「枕詞」。こういったものが、「1つの音が掛詞のように、2つの意味を兼ねて結びついているもの」にあたります。 |
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さいごに、意味によって「枕詞」と結びつきを持っているもの。同じように例として、
紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらばをあげてみます。大海人皇子というのは、天武天皇のことです。 「紫草(むらさき)の にほへる」というのは、「紫草のように美しい」というようなことを意味します。このことを、くわしく見ていくことにします。 まず、古語での「にほふ」というのは「美しい」ことを指す単語です。少なくとも平安時代より前においては、鼻で嗅ぐことで感じる「かぐわしさ」の意味では使いません。「にほふ」がもっている意味の中心には、「美しい」といったことが込められています。 他方で「紫草」。古くから「紫」という色は、高貴なものとされていました。そして「紫草」という草からは、美しい紫色の染料をとることができました。 このようなことから「にほふ」の「枕詞」として、「紫草の」が使われました。 さらにいえば。 「妹(いも)」というのは、女性を親しんで呼ぶときに使われます。そして、そのなかでも恋人や妻を指していることが多くあります。ですのでここでは、「美しい」という意味の「にほふ」が「妹(いも)」を修飾していることになります。 このような「にほふ」(=美しい)女性のすがたを、より際だてて写しとるために。「紫草の」という「枕詞」が使われたのだ、ということもできます。 |
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「枕詞」のなかには、「意味」によって結びついたものがある。そのように、すぐ上の項目で書きました。 ですが。 この理屈には、よく考えるとアヤシイ点があります。それは、 「意味」がちゃんと分かっていない「枕詞」がある。というところです。 「枕詞」の読みかたが分かれば、〈(1)音により結びついたもの〉にあたるかどうかは判別できます。そして、〈(2)意味により結びついたもの〉だと確実にいうことのできるものもあります。 ですが。 ほとんど本来の意味を失ってしまった、「枕詞」のなかには。本来の意味がなんなのか、ということさえ分からなくなっているものがあります。 そういったものを〈(2)意味により結びついたもの〉だと断定するのには、頼りなさがあります。ですのでそういった「枕詞」まで、あえて3分類のどれか1つに当てはめる必要はありません。 |
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すぐ上の項目で1回、指摘しましたが。 「枕詞」のなかには、その意味がよくわからないものが多くあります。 たとえば「あをによし」。これは、「奈良」にかかる「枕詞」だと教わります(そして、無理に覚えさせられます)。 たしかに大昔。「あをによし」によって「奈良」を修飾することには、なにかしらの意味があったと考えられています。しかし時代がくだるにつれて、そういった意味がうすれていってしまいました。そのため、「枕詞」は形式化の道をたどっていきました。 その結果、「あおによし」の本来の意味は、よくわからなくなっています。実は、「枕詞」を使っていた奈良時代の人も、本来の意味がよく分かっていなかったと考えられています。 |
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このように「枕詞」は、本来の意味がよくわからないものも多くあります。そういう「枕詞」を現代語訳することは、まず無理だといっていいでしょう。他の歌で使われている例をさがしたりしても、調べるには限界があります。 また、意味がわかっている「枕詞」であっても。その多くは、現代語の単語1つであらわすことのできるものではありません。長いあいだ引き継がれてきた、「枕詞」がもっている輝き。地名をたたえるため、神をたたえるために伝わってきた、「枕詞」の重み。そういったことを、1行あたりで描きだすことはできません。 そういったことから、「枕詞」を現代語にするときには。 その部分はカッコに入れて、とりあえず外しておこうということになっています。 これは、どうも本居宣長あたりが言いだしたことらしいです。本居宣長『古今集遠鏡』「例言」の文を「本居宣長記念館」から無断借用すると、 枕詞序などは、歌の意にあづかれることなきは、すてて訳さず。これを訳しては、事の入まじりて、中々にまぎらはしければなり。そも歌の趣にかゝれるすぢあるをば、その趣にしたがひて訳す。([http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/tookagami_reigen.html]より)とのことです。原則としては「すてて訳さず」とのこと。 まあ、だからといって。 すこしも「枕詞」は気にしなくてとか、無条件に放置しておいていいといったものではありません。 「枕詞」であっても、意味が読みとれるものであるのなら。できるかぎりは、現代語訳に反映させるよう手を尽くすことが求められます。5・7・5・7・7という、とても短い「和歌」のなかで。「枕詞」は、5音(1句)も占めています。これだけの長さがある「枕詞」を、まったく素どおりするわけにはいきません。 まあ、手を尽くしても意味がわからないのが「枕詞」なんだけど。 とくに、時代が古いものほど。なんでこんな「枕詞」をつけたのか、ナゾになっているものが多くあります。 |
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「古代朝鮮語」という表現が正確でないとするなら。「古代百済語」と書くべきでしょうか。 古代の日本語と、古代の百済語と。この2つが、近い関係にあった。そのことを根拠に、古代百済語の単語をカギとして古代日本語を知ろうというものです。 『万葉集と古代韓国語—枕詞に隠された秘密—(ちくま新書169)』(金公七/ちくま書房)などは、こういった説をとる本です。 「あをによし」についていえば。 「あを」は、「青い色」のこと。「よし」は、「色を表す語の語幹について、色がごく薄い」という韓国語(済州の方言)。なので、全部まとめて書くと、 「ごく薄い青色に見える奈良」という意味になるとのこと。 ここには、非常に大事なポイントがあります。それは、「(現代)済州の方言」と「古代日本語」とが近い存在だと考えているところです。 古代の朝鮮半島には、新羅系のグループと百済系のグループがいた。そして、百済系のグループは(滅ぼされたか追い出されたかの理由で)朝鮮半島から姿を消した。その結果、現代の朝鮮半島にいるのは新羅系のグループ。 そして、〈新羅系のグループを話すことば〉と日本語とは、かなり異なったものです。それは、現代の韓国語と現代の日本語とをくらべれば分かります。 ところが。古代日本と百済は、とても仲がよかった。そして(手元に裏づけの資料がないんだけど、おそらく)民族としても近かったし、文化にも多くの共通点があった。であるなら、「古代百済語」と見くらべることによって「古代日本語」を知ることができるのではないか。 と。ここまで書いてきた理屈からいうと。 「古代百済語」と「古代日本語」とを、照らし合わすことになるのではないか。それなのになぜ、「(現代)済州の方言」と「古代日本語」とを、突きあわせようとするのか。 その疑問、ごもっともです。だけれど、じつは「古代百済語」というのは、ほとんどナゾです。現代まで文化を受け継いでくれている人がいないので、あらかたナゾです。だいたい朝鮮半島のことばというは、中世(15世紀)にハングルが成立するまでは、かなり大まかなことしか分かりません。 ですが。 ここに1つだけ、「古代百済語」を知る手がかりがあります。それは、方言です。一般論として、方言の中には古くからの言いかたが残っています。とくに済州島の言葉(済州語)や文化は、韓国本土のものとは、かなり違います。たとえば韓国本土と済州島の距離は、およそ90km。これにたいして韓国と対馬との距離は、約49.5km。これだけ物理的な距離が遠ければ、古くからの方言も残っていそうな気がします。 であるなら。そういった方言のなかには、もしかしたら〈百済系のグループを話すことば〉が残っているかもしれない。そして、残された〈百済系のグループを話すことば〉のなかには「古代日本語」につながるような言葉があるかもしれない。と、このように考えるようになるのです。 もちろん。「現代韓国の(済州島などの)方言」と「古代百済語」でも、かならず一致するものではありません。 まず「現代韓国の(済州島などの)方言」のなかに、「古代百済語」から流れてきた言葉を見つける。そして、見つけた言葉はあくまで現代のものなのだから、そこから「古代百済語」を推しはかる。そういった作業を、入念にしななければならない。 そういった難点があることを、十分にふまえた上で。 「枕詞」に使われている、意味のわからない語句の意味を知るために。「古代韓国語」を、ひとつの手がかりにすることができるのではないかと思います。その意味で金公七氏の説には、一定の価値があると考えます。たしかに、こじつけと思わざるをえない部分もあるけど。 |
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『古事記』『日本書紀』に書かれている時代の「枕詞」。そこには、地名を導き出すことになるものが多くあります。古い時代の「枕詞」は、その多くが「地名」の前に置かれているのです。 ですが。 奈良時代に入ると、「枕詞」が地名ばかりを導き出すものではなくなっていきます。そして、平安時代以降には、「枕詞」というレトリック自体が衰退して、ほとんど見かけなくなるようになります。 この点について、『古典文学レトリック事典』(國文学編集部[編]/學燈社)で、「枕詞」の項目を執筆した古橋信孝氏は、興味深い説明をしています。ひとことでいえば、 地名が「神聖」なものなので、ということです。 とくに、『万葉集』よりも前に書かれた『古事記』『日本書紀』のなかに。その性格が、強く前に出てきているとしています。 |
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では。 なぜ、「地名」が神聖なものと考えられたのか。 それは「地名」が、始祖の神が降り立ったということによって名づけられたものだからです。つまり「地名」は、「神話」に裏付けされてできたものと考えられたのです。 人々は、「地名」は「神聖」なものだと考えた。そのためダイレクトに地名を使わず、「神聖」であることを緩和するステップを踏まなければならないと考えた。そこで歌の中で「地名」を使うときには、その手前に「枕詞」をつけた。「枕詞」を置くことによって、それに続く「地名」を使うときのクッションのような役目を期待した。そのように説明がされています。 この理論を、さらに進めて考えると。 「枕詞」は、もともと「神」「地名」をほめる言葉をもとにしている。そこを原点として、「枕詞」は発展していった。 そのようにいうことも、できます。 ただし、『万葉集』以降になると。 「地名」と「枕詞」とが、いつもセットになって登場するということはなくなります。そして上でも書いたように、平安時代になると、「枕詞」自体がほとんど使われなくなります。これは、「掛詞」や「縁語」の発達によるものと考えられています。 |
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枕詞 | |||
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枕言葉 | |||
※昔は、「発語」・「歌枕」・「諷詞(たとえことば)」・「枕言」・「冠辞」・「枕辞」といった色々な呼び方がありました。そして、これらの用語のなかには「序詞」を含んだものもありました。ですが現在では、「枕詞」という言葉にほとんど統一されています。 |
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現代では。 「枕詞」という単語を、「前置きに使われる言葉」ということを指して用いることもあります。この言いまわしで出てくる「枕詞」という単語は、和歌のなかで使われる「枕詞」という用語から、転じて使われるようになったものです。 |
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音数律、序詞、掛詞、縁語、見立て、古語法![]() |
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このページでは、ふれることができませんでしたが。「枕詞」については、江戸時代から続いている研究の歴史があります。そういった研究史を知りたい人には、おすすめだと思います。 | |||
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